【今週の礼拝メッセージ】

 

  神のみことばを深く悟らせていただき、

  真理によって、歩んでいきましょう。

  神を知ることこそ、最高の幸福です。

 

 

 

◆幼子も礼拝します。あーめん。

 

 

 

 

 

 

 

 

  2019年5月5日  山口 春雄 牧師

 

今日は、詩篇23篇の4節を中心に「神の臨在の中で」という題で、み言葉から恵みみをいただきたいと思います。

 

この詩篇23篇の前半を読むと、緑の牧場とか、いこいの水のほとりと言う言葉から、何かほのぼのとした情景が目に浮かびます。ダビデは、そう言った麗しい生活環境の中にあったのかと言うと、実際は緑も水も少ない砂漠の様な生活環境の中にあったと言うわけですから驚きです。しかし、どうしてその砂漠の様な所が緑の牧場へと変わったのかと言うと、神の臨在感がダビデの心の中に満ち溢れていたからです。

 

今日は4節に注目します。ここを読むと、ほのぼのとした情景が一瞬にして現実の厳しい世界に引き戻されるように感じます。「死の陰の谷」とか「わざわい」と言った言葉からそういう気分になるものです。しかし、これは私たちに何を教えようとしているのかと言うと、信仰生活と言うのはいつも緑の牧場の様な生活が続くのではなく、危険を伴うような出来事や、思いもよらない試練の中を通ることがあるということ私たちに教えるのです。ですから、クリスチャンはそのことを十分に自覚しておかなければなりません。

 

4節をもう一度ご覧下さい。「死の陰の谷」と言う言葉がありますが、この言葉は、ヘブル語で「ツァルマーウェス」と「ツァルミート」と言う言葉が使われておりまして、「暗闇」と「絶望」と言う意味です。ですから、私たちクリスチャンの信仰生活の中には、時として、目の前が真っ暗になるような出来事や絶望的な状況の中に追いやられることがあるのだということです。

実は、ダビデ自身も自分の人生の中でそういう苦しい経験をしていたのです。突然サウル王に命を狙われたり、最も信頼していたヨナタンを戦場で失ったこと、極めつけは、息子アブシャロムの謀反です。そういう中で、心に平安を取り戻すことができたのは、主の臨在を身に感じてからです。

 

新約聖書を見ると、パウロも死の陰の谷を歩むような経験を何度となくしたとあります。けれども、そういう中でパウロが主から与えられた使徒としての働きを全うすることができたのは「主がともにいてくださる」ということを、身近に感じていたからです。

 

ただ、ここで少し注意していただきたいことは「主がともにいてくださる」というと、つい私たちクリスチャンは、すべての物事がトントン拍子に運ぶと期待しますが、決してそうではないのだということを心しておく必要があります。

 

それは、ヨセフの生涯を見ると分かります。確かに主はヨセフとともにありましたが、兄弟から殺されそうになったり、エジプトに奴隷として売り飛ばされたり、主人の奥さんから濡れ衣を着せられ牢獄に入れられたりしました。大切なのは、そう言った不条理と思える中でも、ヨセフは「主の前に生きている」ということをしっかりと認識していたことです。

 

私たちの信仰生活の中にも、思いもよらない出来事や状況の中に置かれることがあることでしょう。そういう時にこそ、主の臨在を身近に感じることが大切です。その他には、み言葉に目を向けることです。

 

ダビデが「わざわいを恐れない」と言っている根拠は、そこにあるのです。逆に、どんな立派な宮殿に居たとしても、主のご臨在がそこになければそこはむなしい場所でしかありません。 

 

私たちはいつも、主の臨在をこの身に感じ歩んでまいりましょう(ヨハネ155)

 

2019年3月10日  山口春雄牧師

 

今日は、マルコ1112節~25節までのところから「実の無いいちじくの木」という題で、みことばから恵みをいただきたいと思います。

 

 

 

先週は、イエス様がまことの王としてエルサレム入城なされるところからでした。実は、ここから受難週が始まります。そして文字通り、イエス様が十字架で死なれる週となります。

 

 

 

今日の聖書の箇所は、イエス様がロバの子に乗ってエルサレム入城された日の翌日の月曜日の出来事です。

 

 

 

イエス様と弟子たちは、再びエルサレムへ向かうのですが、その途中イエス様は空腹を覚えられたようです。何か食べ物はないかと辺りを見まわすと、その先に葉の茂っているいちじくの木が見えたので、その実を取って食べようと近づいて見ると、葉が茂っているだけで実が一つもなかったのです。それを知ったイエス様は、このいちじくの木を叱ったというのです。後で分かりますが、このいちじくの木は枯れてしまいました。

 

 

 

この出来事を見て私たちは、なんとも理不尽なイエス様の言動にびっくりさせられます。まるで駄々をこねて腹を立てている子どもの様にも見えます。13節を見ると「まだ、いちじくのなる季節ではなかったからである」と言うことを聞くと、なおさらイエス様のなされたことに疑問が湧いてきます。

 

 

 

この出来事は、いちじくの木を叱ったことだけを見ていると、確かに、何てひどいイエス様だとなりますが、ここを正しく理解するためには、今日のみことば全体を見る必要がありのです。

 

 

 

14節までに、実の無いいちじくの木を叱って、20節ではそのいちじくの木が枯れています。その間15節~19節にもう一つの出来事があるのです。「イエス様の宮清め」の出来事が語られています。その事を理解する必要があるのです。

 

 

 

イエス様が神殿に来られた時、そこには過ぎ越しの祭りを祝う大勢の巡礼者がユダヤ全土、また世界中から集まっていました。彼らの目的は神に捧げ物をするために来たのです。本来なら、自分の家から規定に従った家畜の捧げ物を持って来るのですが、それは大変なことでした。

 

 

 

そんな人たちの便宜を図るため当時、神殿の境内に必要な家畜や両替をする店があり、巡礼者はそこで買えば便利で安心なことでした。お店を出す人たちも、自分たちの生活もありますから正当な範囲で儲けを出すことも必要なことで、決してこれ自体は悪い事ではありませんでした。

 

 

 

しかし、イエス様は宮に入ると商売をしているお店を片端から蹴散らし、商売人達を追い出し始めたのです。こんなに激しく怒ったイエス様、後にも先にもないことです。どういうことでしょう…?その事を考える上で重要なのは17節のみことばです。

 

 

 

ここで注目したいのは、「すべての民の祈りの家」と言う言葉です。当時、商売に使っていた境内の場所は、「異邦人の庭」と呼ばれていた所でした。異邦人たちにとってはとても大切な庭だったのです。そんな異邦人たちの礼拝場所を商売するお店が占領して、あたかもお前たち汚れた者は神に近づくなと言わんばかりの状態だったので、そこでイエス様はお店を蹴散らしたのです。

 

 

 

最後にもう一度、枯れたいちじくの木について見てみましょう。イエス様は、実がなる季節でないにもかかわらず、実を付けてないいちじくの木を叱りました。これは、当時のユダヤ人たちの信仰の姿勢を指して言っていることなのです。

 

 

 

神様は、私たちクリスチャンが、いつでもどんな時でも御霊の実を結ぶことを願っているのです。今は親切の実を結ぶ季節ではないから親切にしません。ということではいけないのです。

 

 


  これまでの礼拝メッセージは

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