【今週の礼拝メッセージ】

 

  神のみことばを深く悟らせていただき、

  真理によって、歩んでいきましょう。

  神を知ることこそ、最高の幸福です。

 

 

 

◆老人ホームにて 訪問礼拝

 

 

2018年4月22日  山口春雄牧師

 

今日は、テモテ4章1節~8節までの所からですが、特に7節を中心に「輝いた信仰生活を送る秘訣」という題で、み言葉から恵みを頂きたいと思います。

 

 

 

7節をご覧下さい。ここを見ると「敬虔のために自分を鍛錬しなさい」とあります。鍛錬という言葉を聞くと難行苦行といった修行のことを言っているのではないかと思いますが、聖書の言っている鍛錬とはそういうことではありません。

 

 

 

テモテ第一の手紙は、全体で6章から構成されていて二つの内容に分かれている短い書簡です。前半は1章~3章までのところでパウロはここで、信仰生活における外面的な部分について語っています。具体的にどういう内容かと言うと、教会の信徒は男性も女性もそれに相応しく規律のある教会生活を送りなさいと言うことです(2:8,9)。教会の指導者に対しては指導者に相応しくありなさいとも言っています(3:1以下)

 

 

 

4章に入りますとパウロはここから内面的な信仰者としてのあり方について語っています。ですからクリスチャンは外面的にも内面的にもバランスのとれた品性を持った信仰者でなければなりません。特に内面的な部分は神と私と言う関係が強く関わって来ますので大切にしたいものです。それが信仰者として輝く大切な要素であるのです

 

 

 

そこで今日は、そのような魅力あるキリスト者であるために何を大切にし、どういう生き方をするべきか、ということについて見てみたいと思います。

 

 

 

4章7節をご覧下さい。「敬虔のために自分を鍛錬しなさい」とあります。ここで注目したいのは「敬虔」という言葉です。辞書でこの言葉を調べてみると「慎み深くある」と説明しています。確かにクリスチャンは、出しゃばったりしないで慎み深くあるということは大切だと思いますが、聖書が教える「敬虔」とはそういう意味ではありません。

 

 

 

聖書の「敬虔」という言葉の意味は、「神を畏れる」あるいは「神の前に喜ばれる生き方」という意味です。ですから、敬虔のために自分を鍛錬するということは、常に神を意識した生き方の中で、物事の善し悪しを判断し決断すると言うことを心掛けて生活しなさいと言うことです。この毎日積み重ねによって、敬虔という信仰のが身につくのです

 

 

 

では具体的に、どうして私たちはこの「敬虔」つまり「神を畏れる生活」が大切なのかと申しますと、二つの内容があります。

 

 

 

一つは、それなくして人は、物事の善し悪しを正しく判断することが出来ないからです。私たちはクリスチャンでもクリスチャンじゃなくても人生の中で様々な出来事の中で、物事の決断をしなければならないことがあります。その判断基準をどこに置いているかによってその人の人生は大きく変わってきます。ですからどうしても「敬虔」な信仰生活が必要なのです。

 

 

 

もう一つは、生き生きとした信仰生活であるためなのです(箴言28:1)。日本は恥の文化であるとよく言われます。人知られなければ何をしても構わないと、私たちクリスチャンはそうであってはいけません。

 

 

 

そして、敬虔な信仰生活を心がけるとどうなるのかと言うと、その生き方に輝きが増してくるのです。(ピリピ2:1216)。私たちは、人の目人の評価を意識した生き方ではなく、神を畏れる生き方でなければなりません。魅力あるキリスト者として輝いた信仰生活を送る秘訣はここにあるのです。

 

 

 

2018年4月1日   山口春雄牧師

 

本日はイースター礼拝記念礼拝です。ヨハネ201節~18のみことばから「なぜ泣いているのですか」という題で、み言葉から恵みをいただきたいお思います。

 

 

 

私たちクリスチャンは、イエス様の復活を何の疑いもなく信じていますが、クリスチャンじゃない人にとっては、死んだ人が生き返ると言うことは、そう簡単に信じられることではないようです。

 

 

 

 そこで今日は、その復活ということが、私たちの信仰と救いにとってどんなに大切なことであるかを学びたいと思います。

 

 

 

 ヨハネ20章、ここには復活の朝の出来事と、墓が空になっていることを一番はじめに見た弟子たちの様子が記されています。ヨハネとペテロはマリヤたちの報告を受けて、急いで墓に行きました。そして二人はイエス様が葬られている墓の中に入って不思議な光景を目にしたのです。それは、マリヤたちが言っている通りイエス様の亡骸が無くなっていたということと、何とイエス様の亡骸を巻かれていた布が、巻かれていた通りのままの状態で置かれていたからです。もし私たちも、同じような光景に直面すると驚いたことでしょう。

 

 

 

ただ、この出来事を信仰という側面から考えるとどういうことを意味しているのかと言うと、イエス様の亡骸は、人の手によって持ち去られてのではないということを証明していることでもあるのです

 

 

 

ヨハネとペテロはこの様子を見てこれはただ事ではないということを感じたことでしょう。そして8節をご覧下さい。二人はこれを見て信じたとあります。ここで知りたいのは、二人は何をどう信じたのかと言うことです。これには二つのことが考えられます。

 

 

 

一つは、イエス様が生きていた時に言っていて様に、「蘇られたのだ」ということです。

 

 

 

もう一つは、マリヤたちが言っていたことが、本当だったということを「信じた」と言うことです。

 

皆さんはどちらだと思いますか? 二人の弟子は、マリヤたちが言っていたことが本当だったということを信じたのです。なぜそのことが分かるのかと言うと、その後の二人の様子から分かります。本来であるならば、復活と言う事実に触れ、イエス様がおっしゃっていたことが現実になったということを知ったならば、大いに喜ぶべきところですが、二人は、何か釈然としない様子で帰って行ったからです(10)

 

 

 

 ここが今日のポイントです。もし、ペテロとヨハネが、イエス様から聞いていたお言葉を、しっかりと心に留めていたらこういうあいまいな釈然としない心ではいなかったでしょう。しかし、弟子たちはそのイエス様のおことばを全く心になかったからです

 

 

 

私たちの信仰生活のあり方と言うのも、何を根拠にした信仰のあり方でなければならないかということを、ここで教えられるのではないでしょうか。つまり、ただ単に、物事の現象を見たとか感じたとかということを根拠にした信仰生活であってはならないのです。何を根拠にした信仰でなければならないのかと言うと、それは神のみことばです。

 

 

 

私たちがいつも、この確かなみことばの上に立っていてこそ、日々の生活の中で感情の浮き沈みがありながらも、確かな信仰生活を送ることができるのです

 

 

 

 

 

 

 

2018年3月25日  山口春雄牧師

 

今日は、ヨハネ1928節~42節より「完了した」という題で、み言葉から恵みをいただきたいと思います。

 

 

 

今週から、教会の暦では受難週に入ります。そして来週の聖日がイースター礼拝です。イースターは、毎年春分の日から数えて最初の満月の一番近い日曜日と決められています。今夜から夜空を見上げると、お月様がだんだん丸くなっていくのを見ることができます。

 

 

 

今日の聖書個所は、イエス様が十字架に架けられ死なれる所です。十字架は聖書の中心的出来事ですから感動的に描かれているのかと思いきや、その事実だけを淡々と記しているということに驚きます

 

 

 

28節をご覧下さい。イエス様が痛みと苦しみの中にあるところですが、ここを見ると、何か台本があって、次にイエス様が何を言わなければならないのか、と思わせるような書き方ですが、決して台本があるわけではありません。

 

 

 

どうしてこんな書き方になっているのかというと、これを書いたのがヨハネです。ヨハネは当時イエス様の十字架の真下にいて、その十字架の出来事を直に見ていた弟子です。この福音書が書かれたのは、それから60年も経ってからその時のことを思い出しながら聖霊に導かれて書いているからです。

 

 

 

只、ここで私たちが注目したいのは「イエスは、ご自分で十字架を負った」という言葉です。この言葉からわかるのは、イエス様はいイヤイヤでも、誰かに無理やり負わされたのでもなく、ご自分のはっきりした意志をもって十字架を負われたということです。

 

 

 

他の福音書を見てみると、この時、両手と両足を太い釘で打ち付けられていましたから、そこから大量の血が流れていたのです。ですから喉がカラカラに渇いていたのです。この様子を想像するだけで私たちは失神しそうになりますが、イエス様は、自らその痛みと苦しみをその身にお受けになられたのです。

 

 

 

29節は、今イエス様が息を引き取ろうとしているところです。その時に酸いぶどう酒を受け取ったのです。のどが渇いた人に酢を飲ませるととんでもないことになります。これはイエス様に対する憐みではなく、あざけりでしかありません。そして、その酸いぶどう酒を受けられると、イエス様は「完了した」と言われるのです。

 

 

 

この「完了した」という言葉は、ギリシャ語で「テテレスタイ」と言います。これは商用語で使われる言葉で、債務の支払いが完了したという意味です。イエス様は何か借金があったのかというと、そうではありません。これは、私たちが支払わなければならない罪の負債を、イエス様が身代わりに支払ってくれたのです。ですからイエス様の十字架には罪の赦しがあるのです。

 

 

 

ところで、何で二千年前に死んでその罪の支払いをしてくれたイエス様が、今の私たちの罪も赦すことができるのかと思う方もおられることでしょう。十字架の後も人間は生まれ罪を犯しているのにと・・・・。

 

 

 

それは、イエス様は真の人であり真の神なのです。神は永遠なるお方なのです。その永遠なるお方が一度十字架でその罪の贖いを成し遂げたということは、その十字架の赦しは永遠に有効だからなのです。

 

 

 

ですから、もうあなたの罪はその十字架の死で支払い済みとなっているのです。

 

 


  これまでの礼拝メッセージは

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