【今週の礼拝メッセージ】

 

  神のみことばを深く悟らせていただき、

  真理によって、歩んでいきましょう。

  神を知ることこそ、最高の幸福です。

 

 

 

◆幼子も礼拝します。あーめん。

 

 

2018年11月25日    山口 春雄 牧師

 

今日は、マルコ313節~19節までのところから「神に選ばれた者」という題で、みことばから恵みを頂きたいと思います。

 

 

 

今日の舞台は、それは「山」です。マルコ福音書で山が出てくるのはここが初めてですが、イエス様にとって、山というのはとても大切な場所だったのです。そこで神と交わりみこころを求めて祈った所だったからです。私たちにとっても、一日の生活の中で聖別された場所を持つということは大切だと思います。

 

 

 

イエス様は山に登り祈った後、12弟子を選ばれたのですが、どういう基準で選ばれたのかということはとても興味深いことです。

 

 

 

16節以下には、選ばれた12弟子の名前が記されていますが、一人一人良く見てみると、単純で素直な人もいれば、とても短気で気性の荒い人もいます。人との調和を好む人もいれば一人瞑想するのが好きな人もいます。右翼のような人もいれば疑い深い人もます。無学な人もいれば教養のある人もいます。その中でも、イエス様を裏切ったイスカリオテのユダが選ばれていることには、どうしてと言いたくもなります。

 

 

 

ユダはどうしてイエス様を裏切ったのかというと、イエス様が永遠の命について語っておられることがどうしても理解できず、失望したからだと言われています。

 

 

 

ですから、改めて12弟子を見てみると、何か一定の基準があったとは思えません。実はそこが大切なところでもありのです。みなバラバラな人たちですし何の共通点もある様には思えませんが、一つだけ共通している点は、イエス様の呼び掛けにすぐに応じたというところです。

 

 

 

それでは、この12使徒たちの務めは何か、何のために選ばれたのかということですが、聖書の中で「使徒」と呼ばれた人は、ここに出てくる12人とその他に3人だけです。ユダが死にその欠員を埋めるために選ばれたマッテヤとパウロとバルナバです。ですから、これらの人々は特別な人たちであることには違いはないのですが、ただその一方で、私たちもキリストの弟子であることには違いがありません。

 

 

 

イエス様が12弟子を選ばれた目的は何のためか、一言で言えばキリストの体なる教会を建て上げるためです。イスラエルは12部族で構成されていました。この12弟子は、新しいイスラエルを形成するために選ばれたのです。

 

 

 

そのための具体的な働きはというと、1415節をご覧ください。ここで注目したいのは「彼らを身近に置く」ということと「彼らを遣わす」という、全く方向の違う言葉があるという点です。近くに置きたいのか遣わしたいのかどっちなんですかと言いたいところですが、イエス様の心は両方の働きをすることを望んでいるのです。

 

 

 

つまり、クリスチャンは教会に入り浸っていてばかりで世の中の事に全く無関心であってはいけませんし、かといって、世のため人のためということで、社会運動や慈善事業ばかりしていてもいけません。このバランスが大切なのです。

 

 

 

マタイ51316節には、地の塩、世の光であれとイエス様は言われました。塩は形を変えながらも本質を失わないで素材に絡むこととにっよって、腐れを防ぐことができますし、燭台は置く場所が重要になってきます。

 

 

 

私たちクリスチャンは、礼拝を大切にしつつ、未信者の中に入って行きキリストを証しする者でなければなりません。そのために選ばれたのです。

 

 

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2018年11月11日    山口 春雄 牧師

 

今日は、士師記13章よりサムソンの信仰から「今の時を大切に」という題で、み言葉から恵みをいただきたいと思います。

 

 

 

サムソンは、裁き司と言う意味での士師らしさのない人でした。それどころか、人間関係に乏しく挙句の果てには、愛した女に裏切られその生涯を閉じると言う始末です。そういう人でありながら、ヘブル書の記者はこのサムソンを信仰の勇者として列挙しているのです。そう考えると、サムソンが信仰の勇者としての何かが彼の中にあるということを私たちは注意深く見る必要があります

 

 

 

そこで初めに、サムソンの誕生とその時代背景を見てみましょう。士師13:17を見ると、サムソンが生まれてきた時代は、イスラエルの人々がまたしても神から心が離れて行った時代であったことが分かります。こうした時代背景の中で、ダン部族の中からこそサムソン登場したのです。

 

 

 

2節以下を見ると、サムソンの誕生の様子が分かりますその生まれ方尋常な生まれ方ではありませんでした。ちょうどアブラハムとサラにイサクが与えられたように、一人の不妊と女から神様はその女を通してサムソンを誕生させたと言うのです。

 

 

 

その当時イスラエルの国では、不妊の女というのは、神様から祝福を受けられない人として恥ずべき者でした。だとすると神の働きをする人は、もっと家柄が良くて社会的影響力を持った家系から出てきた人を選べばいいのにと私たちは思います。

 

 

 

でも神様は不妊の女を選ばれたのです。なぜかと言うと、ここが重要なところですが、聖書の神は、人間が不可能と言われる中から事を行うことの出来るお方と言うことを私たちに教えているのです。そう考えると、神に用いられる人の条件はただ一つ、その人がどれだけ神の手に握られているかということが重要であるということがわかります。

 

 

 

あなたは、神のみことばに信頼して毎日生活しているでしょうか。サムソンの誕生を見るときに、神の深い御心と計り知れないご計画を私たちは思わされますそういう背景の中でサムソンは生まれてきたのです

 

 

 

そして更に、神様は天の御使いを通して、サムソンが母の胎内にいる時と誕生してからの注意事項を指示しています。一つは、食べ物に気をつけること、もう一つは、髪の毛を切ってはならないことです。

 

 

 

その後、夫のマノアにも現れています。その時、マノアが主の使いに尋ねるのです(12)。それは、生まれて来る子が特別な子だったらどういう風にその子を育てたらいいのかということでした。これは親として当然のことですよね。

 

 

 

しかし、それに関しては主の使いは何も言っていません。マノアの奥さんに言ったことを繰り返し伝えるだけでした。これは無責任なように聞こえますが、実は信仰的には大切なことなのです。と言いますのは、私たちはいつの間にか先々のことを心配しすぎて、今やらなければならないことをおろそかにしてしまうということがあるからです。

 

 

 

ですから信仰とは、今という時を大切にしつつ、全てのことを神に委ねることが大切なのです。事が起こる前に信じて従う信仰がクリスチャンに求められているからです。

 

 

 

その結果どうなったのかと申しますと、1324節でサムソンの誕生を見たのです。その子は大きくなり、主は彼を祝福した」と、これがマノアに対する主からの答えです。

 

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2018年10月21日    山口 春雄牧師

 

今日は、士師記625節~32節までのところから「信仰生活の第一歩」という題で、み言葉から恵みをいただきたいと思います。

 

 

 

先週は、ギデオンが登場した時代背景と選びの基準について学びました。

 

 

 

今日は、ギデオンがいよいよ主の働きの第一歩を踏み出して行くところです。彼は、最初の一歩として何をしたのかというと、「アシェラ像を切り倒せ」とあります様に、敵と戦う前に、イスラエルの民の中に蔓延していた神様に喜ばれない様々な習慣というものを、ことごとく取り除くことから始めたのです。

 

 

 

これは、私たちの信仰生活においても大切なことです。洗礼を受けて信仰が完成ではなく、洗礼を受けてからが信仰生活の始まりなのです。そのスタートに当たり確認しておかなければならないことは、神に喜ばれないものを整理しておく必要があるということです。いつまでも古い習慣を持っていてはいけないのです。

 

 

 

神の恵みもほしい、しかし、今までの生活も手放したくないということであれば、必ず信仰生活は混乱してきます。そのことをはっきりしておかなければならないのです。どうしてそれが大切かというと、クリスチャンとして輝くためです。

 

 

 

ですから、神様はギデオンに、敵と戦う前に身内の中にあった神様に喜ばれないものを粛正するように命じたのです。その神の命令を受けたギデオンは、夜のうちにこっそりとアシェラ像を切り倒したというのです。

 

 

 

これは優柔不断なギデオンと映るわけですが、もっと勇者のように堂々と行えばとも思いますが、これは彼が肉の力や勢いでやっているのではなくて、神のみことばに従っているということの大切さを教えているのです。

 

 

 

その翌朝、このことを知った人々はびっくりして、誰がこんなことをしたのかと騒ぎ出しました。その犯人がギデオンだと分かると、ギデオンの父ヨアシュのもとへ行き彼を出すようにと怒鳴りました。

 

 

 

その時、父ヨアシュが町の人達に言っている言葉に注目しましょう(31)。これはどういう意味かと言うと、もしバアルが真の神なら、打ち壊した者に対してしかるべき裁きを下すはずだということです。そこで町に人達はギデオンに「エルバアル」と言うあだ名をつけて帰りました。

 

 

 

これと同じようなことが使徒行伝5章にもあります。ここで始めてキリスト者が、クリスチャンと言うあだ名がつけられたのです。クリスチャンとは「あいつらはキリストにつく奴らだ」と軽蔑してつけたのです。プロテスタントもカトリック教会がつけたのです。「反抗者」だと言う意味です。

 

 

 

また、昔日本人はクリスチャンのことを「耶蘇」と呼びました。耶蘇とはイエスと言う意味です。

 

 

 

さて、私たちは本当にクリスチャンと呼ばれるにふさわしい者であるかどうか、ギデオンが「エルバアル」と呼ばれた様に、クリスチャンと呼ばれるにふさわしい信仰生活でありたいものです。

 

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2018年9月9日  山口 春雄牧師

 

今日は、創世記41章全体から「神はあなたを忘れない」という題で、み言葉から恵みを頂きたいと思います。

 

 

 

先週は、監獄に入れられながらも心折れることなく、他の囚人たちの世話までしているヨセフの姿から学びました。その世話を任されることによって一つのチャンスがやってきたのです。しかし、その期待は叶わないまま時が過ぎて行ったのでした。

 

 

 

この41章は、それから2年後のことが記されています。2年後、ついにヨセフに対する神の計画が目に見える形で動き出したのです。1節の2年の後という言葉には、いろいろな深い意味がるということを学ばされます。

 

 

 

一つは、神の時ということです。つまり、私たちがどんなにじたばたしても、神の時が満ちない限り、事は一歩も動かないということを教えられます。逆に言えば、神の時を待ち望みそこに希望を持っているならば、安全だということでもあるのです。ヨセフにとっては、神の時がいつであるかは分からなかったでしょうが、神を信じ忠実に生きてきたからこそ、神に御業を拝することができたのです。

 

 

 

そしてもう一つ、2年という時から教えられることは「人は私たちのことを忘れても、神様は私たちのことを決して忘れることはない」ということです。

 

 

 

ここで言う「忘れない」というのは、「憶えている」と言った様なことではなくて、いつも心に留めていてくれるということなのです。このことをしっかり理解しておいて下さい。

 

 

 

そう考えると、私たちの人生で思いもよらない辛い出来事が起こったとしても、それは単なる運命だと諦めてしまうのではなく、神が知っているうえでの愛の取り扱いだと受け止めることができるのではないでしょうか。ヨセフの生涯は、まさにそのことを私たちの教えているのです。

 

 

 

創世記41章は、ヨセフがエジプトに奴隷として売られてから13年目、ついにヨセフに対する神の時が満ちたのです。それがこの2年の後という言葉に表されています。2年後、何があったのかというと、パロ王様の夢の解き明かしのために、監獄から出され王の前に立つことになったのです。

 

 

 

ヨセフは、見事に王の夢の解き明かしをしたのでした。それだけでなく、驚くことにそれに対する国家としての今後の在り方まで、つまり、政策立案まで指南したのでした。これに感激した王様は、ヨセフを総理大臣の位につけたのですから、この展開にはさすがのヨセフも驚いたことでしょう。

 

 

 

ヨセフの、こうした神に対する揺るがない信仰と信頼というものが、自分を生かすだけでなく、この後エジプトの国は勿論、イスラエル民族をも救うことになるのです。

 

 

 

最後に、マタイ103839節をご覧下さい。私たちの人生はヨセフほどではありませんが、思い通りにならないことがたくさんあるものです。

 

 

 

しかし、そんな中でも、神の御手を信じつつ神の恵みが自分の人生にあると考えるならば、必ず意味ある人生を送ることができるのです。それが、「わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします」ということなのです。

 

 


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